百花斉放、村崎継承歌 1《結集》

世はお江戸、色も酣。

菊塵の袖にて口元を隠し、恍惚として微笑むその姿は妖しき女子おなごの如く。

「美しい」

盛りを終え散りゆく桜に、邸の主は顔を綻ばせた。

見上げる空に散る花弁。薄青に桜色がよく映える。

ひろい庭の隅、石池にまで降り注ぎ、数え切れぬ花びらが水面に張り付いた。

 

花も羞じらう華菖蒲、守り見るは侍従のしのび

黒装束を纏い、一心に主を見つめるその姿は凛々しく。

儚桜に心惹かれる美しき華にこそ、酔い痴れてならない。

 

何はともあれ、本日も平和である。

  

村崎武家屋敷、長屋の表。

「ござるっ!!」

菫色の長髪を振り乱し刀を振るうは村崎家一代の息子。

どこか幼さの残る顔立ちにも、乱れぬ志を窺い知れる精悍な表情。

昼食後の茶菓子(鯛焼き)を我慢したのは一目瞭然である。

散桜と舞うその姿は刹那、軒下にて茶を含む父親の目を奪う。

 

「成長したものだな、息子よ」

「…父上、この、刀が、しっくりきて、非常に、良いのでござるっ」

息子は休むことなく空を斬り続ける。確かに、その乱れ刃は村崎家に代々伝わる重き逸品。

「この父が褒めているのだ、謙遜などいらぬ…」

珍しく微笑む父に、毎度の威圧は感じられない。

 

 

「…もう、秋なのだな」

 

桜散る軒の下、湯呑に浮く花弁は蓮の如く。

ぽつりと呟いた仰ぐ眼差しは、ただ悲しげに揺れた。

 

 

 

 

秋風のにおいも美しき紅葉も、今はただ、辛い。

 

一人息子達ての頼み、突っ撥ねることもできず紅葉狩りに裏山を訪れたは良いが、どんなに見事な彩も、感慨に浸らせてはくれぬ。

 

もう一度、顔が見たい…。

景色を眺め歩くも、そればかりが巡り、鳥の囀りも、木々の揺れる音も、息子の楽しげな声すらも届かない。

意識のないままにひとつ、前を行く揺れる菫色に目をやる。

ああ、お前だけが。お前だけが証なのだ。

 

 

 

一引き、二運、三器量。

「萩屋のお紅、」

…そのうちの、運だけ。

 

 

待兼ねた奥泊、妾を召されしお方の、紫の髪の長いこと。

目にかかる前髪を左に分け、男性とは思えぬ程に手入れの行き届いた艶麗な髪。幾許か荒々しき言動も、その繊細な御心までは隠しきれぬ。髪を梳く長い指も、抱留めたひろい胸も、妾を息苦しくさせた。

「さて、このお紅をご指名なさった貴方、何が故」

武家とも無縁、風貌は祖末。しかし紫のお方はそれでも強く言い放ったのだ。

「其方が、美しかったからだ」

 

 

妾は中臈に成上がり、女中などからは疾うに“汚れた方”と呼ばれ、しかし然程気には留めず、大奥の一員を抜けた。

 

 

 

日は既に沈み、蒼味を帯びる月明かりが一武士を貫く。 

畳に端坐するその姿は父の面影をそのままに映し、心地良い夜風が頬を濡らした。

ここに居ると時折、思い返すのだ。

今は亡き母のことを。

 

ただ、その顔が思い出せぬ…。

 

 

あの日が戻ることはない。

 

主の御供のひとりとして、嫁を残し、城を後にする。

道中、突如咳き込む主の背をさすり、侍従の忍が覗けば美しきお顔を歪ませ、苦しげに噎せる。

自らの脚で歩きたいと言うが、なにせ御体の弱い邸主、これ以上の無理は毒と、最も年長き拙者が背負い歩く。

見上げた空には蒼白い月。軽口に今の貴方の様だと呟けば、侍従の視線が突き刺さる。

「村崎殿はやはり、色恋に浮かれておられるらしい」

しかし忍は揶揄するように、見えない口元を緩ませた。

「む…何を言うか!」

少々むきになりつつも、完全に否定できぬのが悔しいところ。

  

再び見上げた蒼い月、ふと妻だけが浮かび、微かに息を漏らした手前、主さえくすくすと笑うのだった。

 

 

 

 

……妾はここで、お腹の子と倶に貴方の帰りを待っております。

 

例え、たった三日の間でも、妾は待ち切れそうにありませぬ。

 

どうか、どうか御体にだけは気をつけなさって…。

 

 

 

「…もう、城に戻りたいのではありませんか?」

 囁かれた主の言葉に、はっとする。

 「…決して、そのようなことは…」

拙者とて、心配なのだ。もし、もし其方の身に何かあれば…。

「蓮丸、貴方はあの娘の強さを知っている筈。気に病むことはありません」

「貴方も、紅の美しさを知っておられるでしょう…」

  

言い終え、顔が熱くなる。どうやらまずいことを言ったらしい。

「………笑うな」

御供一行の暖かい視線を受け、その頬を一層朱に染めたのは良き思い出であった。

 

 

 

……ああ、其方は今、何をしていよう。

 

腹を痛め苦しんではいまいか。

 

拙者は無事だ。気丈に待っていて欲しい。

 

 

 

一晩中歩き通した道も、もうじき抜ける。

見上げれば、いつの間にか蒼月は紅日に代わっていた。

 

 

 

 

三日目の晩。

一行が帰路を辿っていると、一人の飛脚が何か叫びながら全速力で走ってくる。

 

「殿!殿ーっ!城が、城が…!!」

 

…一行は唖然とした。

 

 

 

 

「…紅……?」

命尽きるまで守り抜くと、誓ったのに。

 

菖蒲邸は敵城の奇襲に遭い、城に残された者達はほぼ殲滅状態であった。

血塗られた城、踏み入る勇気はない。…いや、まだ希望はある……、

「…紅……紅………!」

…しんと静まり返る城に一縷の望みは薄れ、ただ名を叫ぶことしかできぬ。

周りの者も、変わり果てた城の様相に呆然としているだけ。

「…紅……!」

 

紅い夜に、悲痛な声だけが響いた。

 

 

「……村崎殿、」

静かに顔を上げると、目の前には侍従の忍。

「不幸中の幸いとでも言えよう…。腹の子は無事であった 」

だが、何も。何ひとつ耳に入ってこない。

「………」

その瞳にすら、何も映さない。

「……………紅……」 

「…萩屋のお紅はもう、いない」 

それでも尚、

「……紅…」

「……村崎殿」

 紫の武士は生気のない目で、静かに泪を流し続けた。

突然の別れ。喪失。自責。

忍にはその心の穴、とても埋めることはできず。

何もできぬまま、心残りのままに、気を失った主の元へ去った。

 

紅葉の美しい、濡れた夜だった。

 

 

 

宵の口はまるで、紅炎の如く。

「…父上?」

どうにも堪え切れず、泪が溢れる。

このような見苦しい姿、見られてはならぬと、息子に背を向け端坐を保つ。

「……」

「父上…?」

…お前だけが、紅の生きた、証。 

 

「…菫丸」

震える声は痛みを隠しきれず、それでも尚、

「何でござるか、父上」 

悟ったのだろう、慰めるような語調で、息子は次の言葉を促す。思わずふっと笑みが零れた。 

…その労り癖もまた、母から受け継いだのだろうな。

 

「お前は母に、よく似ている」

はにかむような笑顔も、時折見せる真剣な眼差しも。

「今日は母の命日だ」

あの日から、20年が経った。 

「……」

拙者にはもう、お前しかいない。

 

「拙者より先に死ぬようなことは許さぬ。良いな…」

 

それだけ言い残し、父は泪を隠しながら主の元へ立ち去った。

 

 

 

一目だけ、一目だけでいい。

もう一度、たった一度で構わぬ。

其方に、会いたい。 

 

叶う事のない願い。

わかっている。

ただ、もう一度会えるなら。会えたなら…。

 

 

 

「紅はもう、いないのですよ…」

遠い國に、逃げたのかもしれない。

「目を覚ましなさい、蓮丸…」

拙者の知らぬどこかで、きっと生きているに違いない。

「蓮丸…」

そうだ、其方は悪戯が好きだった。あの奇襲も、冗談なのだろう?

「……」

ああ、この20年の間で、どれほど美しくなったことだろう。

早く、戻ってきてくれ。怒らないから…。

 

 

…刹那、視界が菊塵で埋め尽くされる。

「蓮丸。お紅は、死んだのですよ。もう戻ることはない。二度と」

邸主は紫の武士に、現実を突きつける。

か弱き主の、精一杯の抱擁。

「でも…、紅はまだ…」

「貴方はもう、紅には二度と会えない」

目を逸らさなければ、壊れてしまいそうだった。

しかし逃避したところで、何が変わる?

「もう、会えないのですよ…」

何度も繰り返し言い聞かせる。

武士は箍が外れたように、抑えていた泪を溢れさせた。

 

 

庭は紅葉に色づき、雨のにおいが鼻をつく。

主の袖はただ、武士の哀泪だけに濡れた。

 

 

 

 

「…母上」

村崎武家屋敷の軒下にて、亡き母に想いを馳せ。 

 

「綺麗でござろう?」

先日、紅葉狩りでひろった萩の葉を、天に透かし見る。

「父上が泣いておられるのは、初めて見たのでござるよ…」

萩の葉が、何故かじわじわと滲み、ぼやけた。

  

 

 

星空は紅く、だが優しく、静かに濡れる頬を照らした。